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月別アーカイブ: 2021年9月

報恩講を一日だけ行います。キッチンカーも来まっせ。

オモテ20211004_20040451

ウラ20211004_20050564

 

キッチンカーがくるよ20211004_19402763

盂蘭盆会法座を行ったらいっぱいお参りに来てくれました。

今年もコロナウイルスの影響でお寺のご法座の中止が相次ぐ中、盂蘭盆会法座はどうしたものかと総代と協議したところ、ワクチン接種が進み大丈夫ではないか、との判断で本年初のご法座が8月16日にが勤められました。

巣籠りを強要され人と会うことに飢えていたんでしょうか、いつになく多くのお参りを戴きました。

或いは初めてお参りに来た、という方や、高校生等若い方もちらほら見えられ、住職として大変有難いご法座でした。

法話は住職が勤め、お盆の由来から、仏様となられたご先祖様はお盆だけに帰ってくるのではなく常に私に寄り添ってくれていることを、正信偈の一節からお話をさせていただきました。

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嘉屋先生がとうとうお浄土へ行ってしまいました。

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令和3年6月14日のお昼頃、光明寺仏教婦人会前会長の嘉屋マサ子様が、満96歳の人生を生き抜かれ、仏様になられました。

表題に「先生」と書きましたが、故人は主に十勝方面で教鞭をとっており住職は直接の教え子ではありませんが、先生が50歳ほどのころ当地に戻られた時、住職は10歳ほどで書道や絵画を習っていましたので40年余りお付き合いになります。

50歳ころに体調を崩し故郷に戻られ当寺の前住職と前坊守に誘われ、お寺参りを始めてから念仏の人となられました。

かかりつけ病院の「看取り看護」という制度をおおいに利用し「入院や高齢者施設には死んでも絶対行かない!家で死ぬんだ」という決意を全うされましたが、親は勿論、夫や兄弟や甥姪といった身内と呼べる人がなく、周囲の心配は夜中など目が届かない時に亡くなられることでしたがそこは人徳でしょうか、日中に坊守付き添いのもと静かに最後の息を引き取られたようです。

昔、「臨終法話」という習慣があったそうです。

いざ、人生の今際に際し阿弥陀さまはちゃんとお浄土へ救ってくださることを耳元で説いたそうです。

私(住職)は亡くなる前々日の深夜、なんとなく気になり嘉屋さんのもとへ駆けつけました。衰えは着実に進んでいるようでしたが会話は出来ました。今しかないと思い嘉屋さんの耳元でこう言いました。

「嘉屋さんから阿弥陀さまを探さんでも、阿弥陀さまの方からもう迎えに来てくれとるからね、あと、お浄土にうちの前住職とばあちゃん、兄貴と姉がが居るからよろしく伝えておいて、まあ、俺はまだ行かんけどね」嘉屋さんは苦しそうな表情の中にも「分かってる分かってる、私をお寺に引っ張ってくれたご院さん(住職のこと、ここでは前住職のこと)とおばあさま(前々坊守)に会うのが楽しみだ…」とか細い声でウンウンと嬉しそうな表情で頷いてくれたお姿は住職として救われた思いがしました。

住職の私も敵わないと思えるほどの念仏者でした。

「平生業成」という言葉があります。

苦しい時の神頼み、仏頼みのお念仏ではなく、普段からお念仏を戴くことでよりお浄土が自分の行くべき所というご信心が積まれていくというのが平生業成で、嘉屋さんはその教えを実践された方でした。

忘れることの出来ない人が一人また一人といなくないっていきます。

住職は嘉屋さんから生前、自身の葬儀は光明寺本堂で執行するように厳命していました。

永年手を合わせ、慣れ親しんだ阿弥陀様のもとで。

それも今流行りの全面に生花を飾るのではなく、本来の葬儀の形の「紙華花(四華花とも)」という、紙で華を模した仏華を供えたら他には何もいらない、で、ご院さんと坊守さんとしゅんちゃん(住職の次男・俊慈)でお参りしてくれたら嬉しいと申されていました。

その命令を実行できたことが残念やら有難いやら。

嘉屋さんの遺影を見る度「私の願い通りでご院さん、よくやった」と褒めてくれているのか「私の言ったことと違う!」と言っているのか自信のない私には未だに判断がつきません…。

毎月のお参りでは「ご院さん、ちょっとすわって」と始まり毎回2時間程色々な話をしました。

次のお参り先の札幌の檀家さんが待っているだろうな、と時計をチラチラ気にしながら…、今はそういった一連はもう無いんだな、と胸が苦しくなるほど寂しいですね。

法名は「師徳院釋尼妙敬」生前に法名を戴いていました。

院号の「師徳」は住職が考えましたが、生前、教師を務め多くの子供たちを導いた「徳」を積んだ人生だったことでしょう。

先述の通りお身内がなく葬儀後はお寺で四十九日までの中陰を預かりました。

葬儀後、かかりつけ病院の職員の皆様が大挙してお参りに見えられました。

「それほど接点が多くはなかったのになんか思い入れがある」「とにかく頑固な人だったけど、信念はお見事でした」嘉屋さんの徳はちゃんと伝わっているんだな~、と伝わりました。

常に勝気だった嘉屋さんの姿は見えなくなってしまったけれど、あと数十年したらまた会えるわなあ。

最後の最後まで、嘉屋マサ子さんのままでした。

天晴な人生だったのでは…。

只々有り難うございました。

合掌 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 礼拝

最後までお読みいただき、本当にご苦労様でした。

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嘉屋さん(右)と仲良しだった岩本八重子さん(故人)

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前列中央で住職の次男を抱っこする嘉屋さん

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